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1: : 2021/07/29(木) 12:34:27.86 _USER
富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して噓の報告をしたのだ。

※本稿は、関裕二 著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

倭人の王の外交デビュー
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されている。

「楽浪(中心地は現代の平壌付近。中国と朝鮮半島をつなぐ航路の要衝。漢王朝の東方の前線基地。「朝鮮の民」を支配し、多大な影響を与え、朝鮮半島最南端まで、強く力が及んだ。

倭人社会も、無関係ではなかった)海中に倭人がいる。分かれて百余国を形成する。定期的に、楽浪郡に使者がやってくる(夫〔そ〕れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為す。歳時を以て来り献見すと云ふ)」

前漢の武帝は、紀元前108年に朝鮮半島を支配し、4つの郡を置いた。その中のひとつが楽浪郡で、その後も朝鮮半島と日本列島に大きな影響を及ぼした。このため、いくつかの国に分かれていた倭人たちは、楽浪郡を通じて、漢にご機嫌伺いをしていたわけである。

『後漢書』東夷伝には、建武中元2年(57)に、倭の奴国(なこく)が貢ぎを献上してきたので、印綬を下賜したとある。前述したように、これが江戸時代に偶然見つかった志賀島の金印だ(倭の奴国、貢を奉じ朝賀す。使人〔しじん〕自ら大夫〔たいふ〕)と称す。倭国の極南界なり。光武賜ふに印綬を以てす)。倭人の王が、外交デビューしたわけである。

このころ、朝鮮半島南部の鉄を取りに、濊(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。

水野祐は、後漢側にとっても、倭の朝貢がありがたかったと指摘している。朝鮮半島を支配する上で、さらに南方の倭人を懐柔し、いざという時に朝鮮半島に圧力をかけられると踏んでいたというのだ(『水野祐著作集2』)。

ただし、後漢は衰退の一途をたどり、楽浪郡の力も弱っていった。ちょうどそのころ(二世紀後半)、日本列島も混乱の影響を受けていたようだ。『後漢書』東夷伝は「桓帝・霊帝のころ、倭国は大乱状態にあった」と記録している。「魏志倭人伝」にも、「倭国乱れ、相攻伐(こうばつ)すること歴年」とある。3世紀初頭には、遼東の豪族・公孫氏が後漢から独立し、楽浪郡の南部に帯方郡を置いた。

後漢は西暦184年の黄巾(こうきん)の乱(太平道信者の反乱だが、困窮した農民の戦いでもあった)を経て衰退する。「魏志韓伝」には、このあと倭と韓は、帯方郡に属するようになったと記す。

西暦220年に後漢は滅び、魏が生まれた。こうして、魏、呉、蜀の3つの領域に分かれて覇を競っていくこととなる。『三国志』と邪馬台国の時代が到来する。また、魏は公孫氏を攻め、楽浪郡と帯方郡を手に入れた。

倭国の女王卑弥呼は、朝鮮半島に進出した魏にすばやく使者を送ったのである。

邪馬台国の戦略
改めて確認しておくが、ヤマトの纒向(まきむく)に人びとが集まりはじめたのは3世紀初頭のことで、ヤマトが国の中心となったのは、3世紀半ばから4世紀にかけてのことだ(絶対年代は確定していない。幅がある)。また、邪馬台国がヤマトと同一かどうかは、ハッキリわかっていない。

2: : 2021/07/29(木) 12:34:35.81 _USER
邪馬台国は2世紀後半から3世紀にかけて日本のどこかに存在した倭国の首都だ。邪馬台国は倭国の王が住む国で、卑弥呼と台与(とよ=壱与〔いよ〕)の2人の女王が立てられたが、この間にも中国では、動乱が続き、勢力図はめまぐるしく変化していった。

西暦265年に、魏は晋(西晋)に変わり、280年に南方の呉が滅び、晋が国土を統一すると、翌年11月、倭人が来朝し、方物を献上している。王の名は記されていないが、卑弥呼の宗女・台与と思われる。

邪馬台国の2人の女王は、『日本書紀』に登場せず、中国側の史料に現れるだけだ。しかも台与は、このあと歴史からフェイドアウトしてしまう。行方がわからないのだ。ここにも大きな謎が隠されている。

倭国は北部九州と考えた方が理にかなっている。拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』(PHP文庫)の中で述べたように、邪馬台国は北部九州の山門県(やまとのあがた:福岡県みやま市)にあったと思う。

奈良盆地にヤマトが出現したのは、富を蓄えた北部九州に対抗するためで、多くの人びとがヤマトに集結した。逆に窮地に立たされた北部九州は、朝鮮半島に進出してきた魏に、すばやく使者を送り、「われわれが日本列島を代表する邪馬台国(ヤマト)」と偽りの報告をして、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を獲得してしまったのだろう。

江戸時代に本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭(ぎせん)説」の考えに近い。本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」という発想から偽僭説を思い浮かべたが、そうではなく、虎の威を借りることで、ヤマトを牽制する目的があったのだろう。親魏倭王のヒミコを倒せば、ヤマトは魏の敵になる。

また、この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていたと思われる。

奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもったのだろう。考古学は三世紀初頭にヤマトや山陰勢力が奴国周辺に押しかけていたことを突きとめているが、奴国はヤマトを北部九州に誘い入れた人たちだ。

「魏志倭人伝」には、奴国と伊都国の不仲、対立を暗示する記事が載っている。魏の使者が倭国を訪れた時、末盧国(まつらこく・佐賀県唐津市周辺)に上陸後、陸路を経て伊都国にたどり着いたこと、その道が「前を行く人の姿が見えなかった」と報告している。

獣道よりもひどい道を歩かされたのだ。この記事、なぜこれまで、「奇妙だ」と、騒がれなかったのだろう。

海人たちの暗躍
北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。

つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。

伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。

答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。

ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。

『日本書紀』は邪馬台国とヤマト建国の歴史を抹殺してしまい、他の話とすり替えているのだが、ここで説明している余裕はない。やはり、詳しくは他の拙著を参照していただきたい。

ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。交易と外交とマツリゴト(祭祀と政治)に、倭の海人たちは、絶大な影響力を行使していたのである。

https://shuchi.php.co.jp/article/8730

引用元https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1627529667/