1: : 2021/02/16(火) 18:51:01.55
先日、映画『ブレイブ ―群青戦記―』のヒット祈願イベントが行われ、出演する渡邊圭祐さんが自身の性格をじっくり待つ徳川家康タイプと分析していた。
実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。
■天下人の性格
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句がある。次に示しておこう。
織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを殺せと命じた。秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。
家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。それぞれの性格をあらわしていて興味深い。
この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に書かれたものである。
『甲子夜話』は文政4年(1821)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841)に完成した。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。
この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。
3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。
では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのだろうか。もう少し考えてみよう。
■苦労人だった家康
天文11年(1542)、徳川家康は松平広忠の嫡男として誕生した。
松平氏は三河を領していたが、その威勢は弱体化しており、駿河今川氏に従属していた。幼かった家康は、今川氏の人質になっていたほどだ。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家康は信長の配下に加わった。
天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死すると、家康は羽柴(豊臣)秀吉に従った。
慶長3年(1598)に秀吉が病没し、その2年後の関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利したが、
家康の完全な天下取りは慶長20年(1615)の大坂夏の陣における豊臣氏の滅亡を待たねばならなかった。
つまり、家康は信長と秀吉という2人の天下人に仕え、なかなかチャンスに恵まれず、辛抱強く待たねばならなかったということになろう。
その事実が先の狂句に反映されたようだ。
また、江戸時代には「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌も広まった。
これは家康が辛抱強いというよりも、棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものである。
■有名な家康の遺訓
ほかにも、家康が辛抱強いとされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。
しかし、この家康の遺訓とされるものは、後世の偽作であると指摘されている。
明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして、創作したものにすぎない。家康の花押まで似せていたのだから、手の込んだ偽造である。
この偽作を「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らが日光東照宮(栃木県日光市)をはじめ、各地の東照宮に奉納した。
これにより爆発的に世間に広まったのだ。
つまり、家康が辛抱強かったというのは、江戸時代に広まった伝承や偽作のようなものが根拠にすぎず、実際はどうだったのかよくわからないのである。
家康が辛抱強い性格だったというのは、今後の検討を要しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210216-00222815/
実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。
■天下人の性格
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句がある。次に示しておこう。
織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを殺せと命じた。秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。
家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。それぞれの性格をあらわしていて興味深い。
この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に書かれたものである。
『甲子夜話』は文政4年(1821)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841)に完成した。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。
この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。
3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。
では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのだろうか。もう少し考えてみよう。
■苦労人だった家康
天文11年(1542)、徳川家康は松平広忠の嫡男として誕生した。
松平氏は三河を領していたが、その威勢は弱体化しており、駿河今川氏に従属していた。幼かった家康は、今川氏の人質になっていたほどだ。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家康は信長の配下に加わった。
天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死すると、家康は羽柴(豊臣)秀吉に従った。
慶長3年(1598)に秀吉が病没し、その2年後の関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利したが、
家康の完全な天下取りは慶長20年(1615)の大坂夏の陣における豊臣氏の滅亡を待たねばならなかった。
つまり、家康は信長と秀吉という2人の天下人に仕え、なかなかチャンスに恵まれず、辛抱強く待たねばならなかったということになろう。
その事実が先の狂句に反映されたようだ。
また、江戸時代には「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌も広まった。
これは家康が辛抱強いというよりも、棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものである。
■有名な家康の遺訓
ほかにも、家康が辛抱強いとされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。
しかし、この家康の遺訓とされるものは、後世の偽作であると指摘されている。
明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして、創作したものにすぎない。家康の花押まで似せていたのだから、手の込んだ偽造である。
この偽作を「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らが日光東照宮(栃木県日光市)をはじめ、各地の東照宮に奉納した。
これにより爆発的に世間に広まったのだ。
つまり、家康が辛抱強かったというのは、江戸時代に広まった伝承や偽作のようなものが根拠にすぎず、実際はどうだったのかよくわからないのである。
家康が辛抱強い性格だったというのは、今後の検討を要しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210216-00222815/
67: : 2021/02/16(火) 19:24:19.12
>>1
先祖代々のブチ切れタイプ
先祖代々のブチ切れタイプ
68: : 2021/02/16(火) 19:24:59.92
>>1
懐かしいなぁ
700年ぶりだねぇ
家ちゃんは、そうなに辛抱強くなかったよ
懐かしいなぁ
700年ぶりだねぇ
家ちゃんは、そうなに辛抱強くなかったよ
194: : 2021/02/16(火) 20:16:17.12
>>1
辛抱強い 否
気がとても小さい
家臣の記したものに面と向かっては何も言えず石に向かってブツブツ言ったり八つ当たりしてたそう
辛抱強い 否
気がとても小さい
家臣の記したものに面と向かっては何も言えず石に向かってブツブツ言ったり八つ当たりしてたそう
687: : 2021/02/17(水) 01:10:30.79
>>1
家康のはおかしい評だな
確かに待つが
鳴くまでではない
他の鳴くウグイスが手に入るまでだ
その場合は鳴かないのは不要物として殺される
自分に従わない人間には苛烈だぞ
家康は
家康のはおかしい評だな
確かに待つが
鳴くまでではない
他の鳴くウグイスが手に入るまでだ
その場合は鳴かないのは不要物として殺される
自分に従わない人間には苛烈だぞ
家康は
691: : 2021/02/17(水) 01:12:39.41
>>687
まあ長生きしたということが勝因といえなくはない
辛抱強いのはむしろ信長じゃないかなあと思うけどな
確かにスピード感は半端なかったろうけど
まあ長生きしたということが勝因といえなくはない
辛抱強いのはむしろ信長じゃないかなあと思うけどな
確かにスピード感は半端なかったろうけど
3: : 2021/02/16(火) 18:51:45.14
優柔不断
なだけだね
なだけだね
4: : 2021/02/16(火) 18:51:56.12
家康も割と短気だろ
7: : 2021/02/16(火) 18:53:20.26
ほとんどの人物像や逸話は後世の創作じゃないの?
18: : 2021/02/16(火) 18:57:42.12
>>7
徳川は創作あり過ぎて近年判明することが多過ぎる
豊臣家を陥れようと創作した秀頼ひ弱話とか
実際は2mに達する巨漢で文武両道のカリスマだったとか
徳川は創作あり過ぎて近年判明することが多過ぎる
豊臣家を陥れようと創作した秀頼ひ弱話とか
実際は2mに達する巨漢で文武両道のカリスマだったとか
57: : 2021/02/16(火) 19:17:52.77
>>18
197センチ161キロて筋肉ついてたとしてもかなりデブよな
197センチ161キロて筋肉ついてたとしてもかなりデブよな
363: : 2021/02/16(火) 21:02:23.19
>>57
白鵬よりデカイんだな
白鵬よりデカイんだな
9: : 2021/02/16(火) 18:54:18.24
短気なところもあるが
辛抱強くなかったともいえない
辛抱強くなかったともいえない
12: : 2021/02/16(火) 18:54:49.37
家臣が有能だったんだろ
747: : 2021/02/17(水) 02:06:12.12
>>12
お前なら有能な家臣を使うことも信頼を得ることもできないだろ?
お前なら有能な家臣を使うことも信頼を得ることもできないだろ?
21: : 2021/02/16(火) 19:00:17.69
関ケ原の戦いは、単なる秀吉の部下の派閥争いでしかない
小牧・長久手の戦いなんて双方野戦が下手くそだから小競り合いしかしてないし
小牧・長久手の戦いなんて双方野戦が下手くそだから小競り合いしかしてないし
23: : 2021/02/16(火) 19:00:45.82
よく言われる三方ヶ原の脱糞逸話は同時代史料で確認できないので後世の創作でほぼ確定、
「しかみ像」の敗走後に自分への戒めとして描かせたという逸話も絵自体は江戸時代中期のもので、逸話も尾張徳川家19代目が戦前に新聞の取材でリップサービスとして話したもので史実の証拠がない
戦国大名や武将の名言や逸話はこういう後世の創作がほとんど
「しかみ像」の敗走後に自分への戒めとして描かせたという逸話も絵自体は江戸時代中期のもので、逸話も尾張徳川家19代目が戦前に新聞の取材でリップサービスとして話したもので史実の証拠がない
戦国大名や武将の名言や逸話はこういう後世の創作がほとんど
92: : 2021/02/16(火) 19:40:24.11
>>23
いちばん有名なの嘘の逸話は三矢の教え。
戦前は教科書にも載ったのに大嘘だったという。
本当は、息子3人に対しこう言っただけ。
「3人とも仲良くしろよ。さもくば、うちはやり過ぎて周りの全て家から恨まれているから、3人とも滅亡するで」
美談も何もあったもんじゃない。
いちばん有名なの嘘の逸話は三矢の教え。
戦前は教科書にも載ったのに大嘘だったという。
本当は、息子3人に対しこう言っただけ。
「3人とも仲良くしろよ。さもくば、うちはやり過ぎて周りの全て家から恨まれているから、3人とも滅亡するで」
美談も何もあったもんじゃない。
486: : 2021/02/16(火) 21:54:46.44
>>92
昔の人の心には響いたろうけど
今は3人兄弟より一人っ子のが多いし
ヒキや無職の兄弟リスクの方が大きいから
現代人にはあまり響かない教訓だ
昔の人の心には響いたろうけど
今は3人兄弟より一人っ子のが多いし
ヒキや無職の兄弟リスクの方が大きいから
現代人にはあまり響かない教訓だ
25: : 2021/02/16(火) 19:01:31.12
信長時代はバンバン領地切り取りに行ってたし秀吉時代は他武将と外戚関係作って根回しに余念が無いしあんまり待ってない印象
33: : 2021/02/16(火) 19:03:43.18
意外とせっかち
36: : 2021/02/16(火) 19:04:23.80
今川、信長、秀吉の力が強すぎて動きたくても動けなかっただけ。
39: : 2021/02/16(火) 19:06:42.26
長期戦略に長けてたってことなんかな
徳川幕府250年
徳川幕府250年
42: : 2021/02/16(火) 19:09:11.69
鳴かぬなら 私が鳴こう ホトトギス
こんな人だった。
こんな人だった。
49: : 2021/02/16(火) 19:11:29.52
偉いやつは本物がたいしたことなくても持ち上げられるからな
52: : 2021/02/16(火) 19:15:23.69
だいたいこの手の歴史資料関連は勝った方が良く脚色され、負けた方が悪く描かれるのは世界共通だろうよ
56: : 2021/02/16(火) 19:17:32.41
そりゃ神格化とかさせてんだから人格者として伝えるわな、歴史は勝者に創られるってやつだろ
66: : 2021/02/16(火) 19:23:33.77
家康は辛抱強いのではなく、辛抱させられてただけだろ
秀吉が死んだ後に短気の本性現した
あと、信長は短気なのではなく判断が早いだけ
秀吉が死んだ後に短気の本性現した
あと、信長は短気なのではなく判断が早いだけ
70: : 2021/02/16(火) 19:26:44.23
三国志の劉備ももっと長生きしてたら天下取ってたのかな
84: : 2021/02/16(火) 19:37:19.31
>>70
敵が曹丕だから無理だな。
曹操に劣る扱いされがちだが、彼も一流だからな。まだボケておらず油断ならん孫権もいるし。
まあ劉備は長生き以前に夷陵の戦いであれだけやらかした時点で無理だった。
敵が曹丕だから無理だな。
曹操に劣る扱いされがちだが、彼も一流だからな。まだボケておらず油断ならん孫権もいるし。
まあ劉備は長生き以前に夷陵の戦いであれだけやらかした時点で無理だった。
80: : 2021/02/16(火) 19:36:08.41
やけに家康は美化されているなと思ってたんだよ
やっぱ幕臣の仕業か
やっぱ幕臣の仕業か
81: : 2021/02/16(火) 19:36:33.92
関が原でもなかなか呼応しない小早川秀秋に爪噛みながらイライラしてたよね
83: : 2021/02/16(火) 19:37:13.46
でも、石田三成の息子を出家することで助命したり、戦国時代の価値観でいえば明らかに温厚じゃね?
90: : 2021/02/16(火) 19:39:14.95
短気で気性が荒く気分屋でも、運が良ければ天下を取れる、ってことかもな。
93: : 2021/02/16(火) 19:40:32.14
ブチ切れる人って有名じゃん
98: : 2021/02/16(火) 19:41:24.94
辛抱ってか、執念ぶかいよな。
99: : 2021/02/16(火) 19:41:27.19
現代にも居るよな
短気な経営者だけどセミナーとかのときだけ温和なイメージでいい人気取るやつ
短気な経営者だけどセミナーとかのときだけ温和なイメージでいい人気取るやつ
140: : 2021/02/16(火) 19:54:57.29
秀忠が優秀だっただけで家康なんて無能の極みだぞ
144: : 2021/02/16(火) 19:55:26.77
忍耐強さ、辛抱強さのパラメータを歳を追うごとに増していったタイプ。
かもしれんな。
かもしれんな。
147: : 2021/02/16(火) 19:55:55.63
秀吉は豊臣家を皇室のような地位にして家としては絶対残る仕組みを作ったのよね
大坂の陣が無ければ存続できたでしょうね
大坂の陣が無ければ存続できたでしょうね
168: : 2021/02/16(火) 20:04:57.00
徳川家康は山岡荘八、坂本竜馬は司馬遼太郎、平清盛と宮本武蔵は吉川英治
180: : 2021/02/16(火) 20:11:21.22
秀吉に超ビビッてるからな。
185: : 2021/02/16(火) 20:13:27.64
大河ドラマ「独眼竜政宗」の、津川雅彦演じた徳川家康は、まんまイメージする狸オヤジで、すごく良かった。
231: : 2021/02/16(火) 20:27:07.90
>>185
津川は葵徳川三代じゃなかったっけ?
独眼竜は勝新太郎の凄みのある太閤殿下しか覚えてない
津川は葵徳川三代じゃなかったっけ?
独眼竜は勝新太郎の凄みのある太閤殿下しか覚えてない
418: : 2021/02/16(火) 21:21:11.38
>>231
独眼竜はクールさがある
葵徳川は津川がやりたいように
かなりやんちゃ
独眼竜はクールさがある
葵徳川は津川がやりたいように
かなりやんちゃ
242: : 2021/02/16(火) 20:29:35.20
>>185
津川雅彦の家康はよかったな
秀吉が勝新太郎でなんか違うなと思った
津川雅彦の家康はよかったな
秀吉が勝新太郎でなんか違うなと思った
引用元https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1613469061/
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