1: : 2021/02/10(水) 20:50:35.70
毎日新聞2021年2月10日 20時28分
https://mainichi.jp/articles/20210210/k00/00m/040/209000c
京都市埋蔵文化財研究所は10日、豊臣秀吉が桃山時代に建立した方広寺(ほうこうじ)(同市東山区)の旧境内で、創建時の築地(ついじ)塀の礎石を見つけたと発表した。築地塀は1596年の慶長伏見地震で倒壊し、秀吉の死後に子の秀頼が回廊に造り替えた。秀頼時代の回廊跡は1990年代からの発掘で確認されていたが、文書や絵図のみで知られていた創建時の姿が今回の調査で裏付けられた。
礎石は2020年9月に始まった、京都国立博物館(京博)・明治古都館の免震工事に伴う調査で見つかった。方広寺は南北約250メートル、東西約200メートルの境内に建てられた。秀吉時代には、奈良・東大寺大仏殿を上回る南北約88メートル、東西約54メートル、高さ約48メートルの大仏殿を築地塀が囲んでいた。大仏殿は1602年に焼失し、秀頼により1614年に再建されたが、方広寺の釣り鐘に刻まれた銘をきっかけに大坂冬の陣などが起こり、豊臣家は翌年滅亡。大仏殿は1798年に落雷で焼け落ち、現在は残っていない。
今回の礎石は築地塀の南東部に当たる。東西方向に2基並び、花こう岩を削った上面には柱を据えるほぞ穴があった。旧境内の南西部に現存する、造成時の石垣に刻まれたほぞ穴と直線で結ばれることなどから、秀吉が創建した当時の築地塀の跡と判断した。2基の礎石を測ったところ、柱と柱の間隔は3・3メートル。方広寺の南側にある三十三間堂に、秀頼が築かせた築地塀(国重要文化財、高さ5・3メートル)の柱同士の間は3メートルで、今回の築地塀は更に巨大だった可能性があるという。
京博は礎石を現地保存する方針。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、現地説明会は開かれない。【南陽子】
https://mainichi.jp/articles/20210210/k00/00m/040/209000c
京都市埋蔵文化財研究所は10日、豊臣秀吉が桃山時代に建立した方広寺(ほうこうじ)(同市東山区)の旧境内で、創建時の築地(ついじ)塀の礎石を見つけたと発表した。築地塀は1596年の慶長伏見地震で倒壊し、秀吉の死後に子の秀頼が回廊に造り替えた。秀頼時代の回廊跡は1990年代からの発掘で確認されていたが、文書や絵図のみで知られていた創建時の姿が今回の調査で裏付けられた。
礎石は2020年9月に始まった、京都国立博物館(京博)・明治古都館の免震工事に伴う調査で見つかった。方広寺は南北約250メートル、東西約200メートルの境内に建てられた。秀吉時代には、奈良・東大寺大仏殿を上回る南北約88メートル、東西約54メートル、高さ約48メートルの大仏殿を築地塀が囲んでいた。大仏殿は1602年に焼失し、秀頼により1614年に再建されたが、方広寺の釣り鐘に刻まれた銘をきっかけに大坂冬の陣などが起こり、豊臣家は翌年滅亡。大仏殿は1798年に落雷で焼け落ち、現在は残っていない。
今回の礎石は築地塀の南東部に当たる。東西方向に2基並び、花こう岩を削った上面には柱を据えるほぞ穴があった。旧境内の南西部に現存する、造成時の石垣に刻まれたほぞ穴と直線で結ばれることなどから、秀吉が創建した当時の築地塀の跡と判断した。2基の礎石を測ったところ、柱と柱の間隔は3・3メートル。方広寺の南側にある三十三間堂に、秀頼が築かせた築地塀(国重要文化財、高さ5・3メートル)の柱同士の間は3メートルで、今回の築地塀は更に巨大だった可能性があるという。
京博は礎石を現地保存する方針。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、現地説明会は開かれない。【南陽子】
引用元https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1612957835/
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