1: : 2020/09/17(木) 14:54:54.90
略
だし汁は関西は薄味、関東は辛いのが今では定番だが、守貞は「どちらがうまいか?」のジャッジは下していない。だが、盛りつけた器を詳細に記していることから、関西のだし汁は「飲む」ため、関東は(蕎麦を)「浸ける」ためと、守貞は考えたようである。
なお、守貞によると蕎麦や温飩は、かつては「慳貪」(けんどん)と呼ばれていた。慳貪とは仏教用語で、「物惜しみする、けちで欲深い」様子(または人)を指すが、それが転じて「安っぽい食事」という意味だったらしい。
幕末には慳貪という言葉は姿を消し、わずかに蕎麦などを持って運ぶ提(さ)げ箱を「けんどん蓋(ふた)」と呼んでいた。
ご覧になればお分かりだろうが、出前用の岡持ちのことであり、現在も岡持ちを「倹飩箱」(けんどんばこ)と呼ぶことがある。
江戸で屋台の蕎麦屋が発展した理由
京坂の繁華街には「四、五町には一戸ナルベシ」(4~5区画に1軒あった)、江戸では「毎町一戸アリ」(どの区画にも1軒はあった)だったという。江戸のほうが、ニーズは高かったということだろう。
それには理由があった。江戸の住人は、圧倒的に男が多かった。諸説あるが、男1.8に対して女1ほどの割合だったらしい。市中には地方から職を求めて来た者が多く、大抵は一人暮らしだった。参勤交代で江戸詰めの武士も、妻を国許に残していた。
つまり、江戸の男たちには、食事を作ってくれる人がいなかったのである。
そこで、外食の需要が高まる。江戸の蕎麦屋は、その点で重宝だった。蕎麦屋の多くが、屋台で営業していたからである。これを「夜鷹(よたか)蕎麦」といった。
夜鷹とは、娼婦のこと。吉原遊郭の娼婦は幕府公認の「公娼」だが、夜鷹は非合法の「私娼」であり、目立たない場所で客を引いていた。
その娼婦たちが腹を空かせているだろうと考えた者が、屋台で蕎麦を提供し始めた。この屋台の出店も、違法である。明暦の大火など、市中を焼き尽くすような火災に見舞われた経験から、幕府は調理に火を使う屋台の出店を貞亨3年(1686)に禁止していたのである。だが、無許可にもかかわらず、夜鷹蕎麦は繁盛した。
そこに目をつけたある蕎麦屋が享保の頃(1716頃)、正式に屋台で蕎麦を売ることを願い出て許可される。それを契機に我も我もと、夜な夜な、屋台蕎麦が営業を開始した。
すべての屋台がきちんと許可を受けていたとは、到底考えられない。だが、さまざまな場所に現れ、夜遅くまで営業してくれる。ヤモメ暮らしの男たちにとって、これほどありがたい存在はない。現在のコンビニのような役割を、江戸の蕎麦屋は担うことになった。
屋台は当時、「屋體見世」(やたいみせ)といわれ、次第に江戸の日常風景として定着していく。屋體見世は「必ズ一ツ風鈴ヲ釣ル」と守貞は書いている。上方育ちの守貞にとって、チリンチリンと風鈴を鳴らしながら行き交う光景は、興味深かったに違いない。
さらに、屋體見世が提供する食事は蕎麦に止まらなかった。寿司(すし)、鰻(うなぎ)、天ぷらを出す屋台が庶民の食欲を満たし、現在の東京の食文化を形作っていく。
次回は、屋台で売られたさまざまな「食」を紹介していこう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7dd661b0ed238319be98db4554a026de89c480d4?page=2
だし汁は関西は薄味、関東は辛いのが今では定番だが、守貞は「どちらがうまいか?」のジャッジは下していない。だが、盛りつけた器を詳細に記していることから、関西のだし汁は「飲む」ため、関東は(蕎麦を)「浸ける」ためと、守貞は考えたようである。
なお、守貞によると蕎麦や温飩は、かつては「慳貪」(けんどん)と呼ばれていた。慳貪とは仏教用語で、「物惜しみする、けちで欲深い」様子(または人)を指すが、それが転じて「安っぽい食事」という意味だったらしい。
幕末には慳貪という言葉は姿を消し、わずかに蕎麦などを持って運ぶ提(さ)げ箱を「けんどん蓋(ふた)」と呼んでいた。
ご覧になればお分かりだろうが、出前用の岡持ちのことであり、現在も岡持ちを「倹飩箱」(けんどんばこ)と呼ぶことがある。
江戸で屋台の蕎麦屋が発展した理由
京坂の繁華街には「四、五町には一戸ナルベシ」(4~5区画に1軒あった)、江戸では「毎町一戸アリ」(どの区画にも1軒はあった)だったという。江戸のほうが、ニーズは高かったということだろう。
それには理由があった。江戸の住人は、圧倒的に男が多かった。諸説あるが、男1.8に対して女1ほどの割合だったらしい。市中には地方から職を求めて来た者が多く、大抵は一人暮らしだった。参勤交代で江戸詰めの武士も、妻を国許に残していた。
つまり、江戸の男たちには、食事を作ってくれる人がいなかったのである。
そこで、外食の需要が高まる。江戸の蕎麦屋は、その点で重宝だった。蕎麦屋の多くが、屋台で営業していたからである。これを「夜鷹(よたか)蕎麦」といった。
夜鷹とは、娼婦のこと。吉原遊郭の娼婦は幕府公認の「公娼」だが、夜鷹は非合法の「私娼」であり、目立たない場所で客を引いていた。
その娼婦たちが腹を空かせているだろうと考えた者が、屋台で蕎麦を提供し始めた。この屋台の出店も、違法である。明暦の大火など、市中を焼き尽くすような火災に見舞われた経験から、幕府は調理に火を使う屋台の出店を貞亨3年(1686)に禁止していたのである。だが、無許可にもかかわらず、夜鷹蕎麦は繁盛した。
そこに目をつけたある蕎麦屋が享保の頃(1716頃)、正式に屋台で蕎麦を売ることを願い出て許可される。それを契機に我も我もと、夜な夜な、屋台蕎麦が営業を開始した。
すべての屋台がきちんと許可を受けていたとは、到底考えられない。だが、さまざまな場所に現れ、夜遅くまで営業してくれる。ヤモメ暮らしの男たちにとって、これほどありがたい存在はない。現在のコンビニのような役割を、江戸の蕎麦屋は担うことになった。
屋台は当時、「屋體見世」(やたいみせ)といわれ、次第に江戸の日常風景として定着していく。屋體見世は「必ズ一ツ風鈴ヲ釣ル」と守貞は書いている。上方育ちの守貞にとって、チリンチリンと風鈴を鳴らしながら行き交う光景は、興味深かったに違いない。
さらに、屋體見世が提供する食事は蕎麦に止まらなかった。寿司(すし)、鰻(うなぎ)、天ぷらを出す屋台が庶民の食欲を満たし、現在の東京の食文化を形作っていく。
次回は、屋台で売られたさまざまな「食」を紹介していこう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7dd661b0ed238319be98db4554a026de89c480d4?page=2
40: : 2020/09/17(木) 15:28:30.42
>>1
だし汁は関西の方が塩分は高いのだが?
薄味ではない余計な色が無いのだが
だし汁は関西の方が塩分は高いのだが?
薄味ではない余計な色が無いのだが
49: : 2020/09/17(木) 15:32:09.29
>>40
それ嘘だから。
しっかり昆布とかつお節から出汁を採ってる店はほとんど追加する塩分要らないから塩分濃度が濃くなる訳がない。
しっかり出汁を使ってない場合は塩分加えて誤魔化してるケースもあるだろうけど。
それ嘘だから。
しっかり昆布とかつお節から出汁を採ってる店はほとんど追加する塩分要らないから塩分濃度が濃くなる訳がない。
しっかり出汁を使ってない場合は塩分加えて誤魔化してるケースもあるだろうけど。
51: : 2020/09/17(木) 15:33:33.78
>>49
へー、在京マスゴミが安物をわざわざ選んで、薄味は塩分が高い!とかすげーやりそうなことだ
へー、在京マスゴミが安物をわざわざ選んで、薄味は塩分が高い!とかすげーやりそうなことだ
57: : 2020/09/17(木) 15:38:19.39
>>51
ちなみにカップうどんの出汁の塩分濃度は次の通り。
赤いきつね
関東版>関西版
どん兵衛
関西版>関東版
まあ安物に関してはなんも言えんがな。
ちなみにカップうどんの出汁の塩分濃度は次の通り。
赤いきつね
関東版>関西版
どん兵衛
関西版>関東版
まあ安物に関してはなんも言えんがな。
4: : 2020/09/17(木) 14:57:12.61
どちらも北海道産が至高
10: : 2020/09/17(木) 15:00:47.92
日本3大うどんに京阪の名前なんかないよ
106: : 2020/09/17(木) 16:34:01.88
>>10
大阪には「腰抜けうどん」という長い文化があった
船場(今の本町周辺)で江戸時代以前から好まれていた
大阪の昭和一桁世代までなら知っているはず
大阪には「腰抜けうどん」という長い文化があった
船場(今の本町周辺)で江戸時代以前から好まれていた
大阪の昭和一桁世代までなら知っているはず
13: : 2020/09/17(木) 15:02:09.33
埼玉はうどん、奈良は蕎麦
44: : 2020/09/17(木) 15:30:17.43
>>13
埼玉はうどん屋を、名乗った定食屋だろ
埼玉はうどん屋を、名乗った定食屋だろ
18: : 2020/09/17(木) 15:05:50.70
江戸と書かれている時点でインチキさが分る
引用元https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600322094/
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