1: : 2021/10/07(木) 06:50:17.79 _USER
江戸時代のお酒事情を紹介します(写真:Table-K/PIXTA)
テレビドラマや映画などでよく描かれる江戸時代の人々。日々の暮らしは現代とは大きく異なっていたはずですが、「お金の面」ではどうだったのか――。 「江戸時代の『寿司の値段』はいくらだったのか」、 「江戸時代の庶民『家賃相場』はどれほどだったのか」に続いて、日本近世史学者の大石学氏が監修した『江戸のお勘定』より一部抜粋・再構成してお届けします。
同書では、比較的物価が安定していたとされている文化・文政年間(1804~1830)を基準とし、金・銀・銭の換算は、幕府の換算基準値の1両=銀60匁=銭4000文としています。また、当時はそば1杯が16文だったことから、現代の価値に換算して1文を30円、そこから金1両を12万円と計算しています。
江戸時代の居酒屋は椅子もテーブルもなし
仕事帰りに軽く一杯引っかけるのが楽しみ、という人は多いだろう。一人暮らしならばなおさらだ。江戸では、日雇い、棒手振りなど、手に技術や経験がなくてもすぐに始められる仕事があり、貯蓄できるほどのゆとりはないものの、まじめに働いてさえいれば、男性の一人暮らしの場合、酒を飲むぐらいの金は捻出できる。仕事帰りに、ちょっと一杯という需要も多かった。
江戸時代の庶民「家賃相場」はどれほどだったのか
居酒屋らしいものができたのは、神田鎌倉河岸(千代田区)の豊島屋が最初といわれる。鎌倉河岸は、江戸城築城の時に鎌倉からの石を荷揚げしたところからその名がついた。江戸城築城後も、多くの物資がここから荷揚げされ、水運関係の労働者の多い場所でもあった。豊島屋ではこうした客に試飲をさせながら酒を売っていた。やがて、豊島屋では客の求めに応じて酒を量り売りし、その場で売った酒を飲ませるようになった。
そのうちに酒のつまみとして田楽を売り出したところ、ほかの店よりも大きいことから人気になったという。豊島屋名物の田楽は1本2文(60円)だった。今でも、下町の古い酒屋などでは店先で缶詰や乾き物を肴にちょっと一杯と、立ち飲みで酒を楽しむ人がいるが、おそらくこのような感じだったのだろう。
ちなみにこの豊島屋、当時は3月3日の桃の節句には欠かせない白酒の名店として有名だった。2月25日の売り出しには、徹夜で並ぶ客が多く出る始末で、その様子が『東都名所図会』にも描かれている。
酒屋で飲むことが流行ると、煮売り屋という総菜を売る店でも、総菜とともに酒を飲ませるようになった。それがやがて酒肴と飯に分かれ、簡便な食事を出す店を一膳めし屋、酒肴を中心とした店を居酒屋と呼んで区別するようになった。居酒屋のほうは入り口に縄のれんをかけていたため、単に縄のれんと呼ばれるようになった。
このような江戸時代の居酒屋には、現在の居酒屋のように椅子とテーブルがあるわけではない。縁台に座り、自分の脇に酒と肴を置いて飲む。無理な格好で飲むことになるからそんなに長居はできなかった。
米から作られる日本酒は日本独自のものであるが、最近は「サキ」といって外国でも人気がある。現在の日本酒が作られるようになったのは、江戸時代である。醸造中に灰汁を入れて発酵が進むのを防いで、酒が酸っぱくならないようにし、最後に火を入れて保存性を高めた。18世紀に水車を使うことによって精米度が向上し、さらにおいしい日本酒を作ることが可能となった。
こうした技術は上方で生まれたため、当時は灘や池田、伊丹、西宮といった現在の兵庫県内が、銘酒の産地として知られていた。この地域は水がおいしく、今でも「六甲」という地名を冠したミネラルウォーターが売られている。上方の酒は、作られた直後は辛いが、船に乗せて江戸にやってくるとまろやかになるといい、富士山沖を通ってくることから「富士見酒」とも呼ばれた。
2: : 2021/10/07(木) 06:50:29.41 _USER
飲酒量は1人あたり年間54リットルという計算
元禄年間(1688~1704)には上方から21万石の酒が入ってきていたという。当時の人口を70万人とすると1人あたり年間54リットルも飲んでいたことになる。一升瓶に直すと30本だか、70万人には子どもや下戸も含まれるから、それを省いたとすると江戸の人々はかなりの量を飲んでいたわけだ。
江戸時代、京都や上方に行くことを上るといい、江戸に行くことは下るといった。今と逆である。上方から江戸にやって来るものを下り物といい、江戸では下り物を高級品としてありがたがった。今日でもつまらないものや大したことがないものを「下らない」というが、その由来は下り物にあるといわれている。
さて、酒の値段は、幕臣で狂歌師・戯作者の大田南畝の記録によれば、天明4年(1784)以降、1升124文(3720円)から132文(3960円)が定価だったが、よくないものなら80文(2400円)や100文(3000円)。幕末の万延年間(1860~1861)には、上酒が1合40文(1200円)とかなり安くなった。
近年、インターネットで注文を受けて料理を届けたり、ネットスーパーと称してスーパーマーケットで販売しているものを配達するサービスが人気のようだ。
しかし、江戸の町はそれより便利だったかもしれない。いちいち注文しなくても商品を持った商人が家の前まで売りに来てくれるからだ。江戸では朝ごはんを炊いて、朝、昼、晩と食べる。だから朝食に間に合うように、アサリやシジミ、納豆など炊き立てのご飯に合うようなものを売りに来る。
そのほか、豆腐、油揚げ、鮮魚、野菜といった素材、味噌、醬油、塩などの調味料、飴細工など子ども向けの駄菓子、初ガツオやところてんなど季節の味覚も楽しめた。
万治2年(1659)4月に、こうした行商人たちに対して鑑札を必要なものと不要なものに分ける町触(まちぶれ)が出されたが、このうち食品関係はほとんど鑑札を必要なしとした。
具体的には、たばこ、魚、季節の果物など計12品。ちなみにこれらの商品を商ってよいとされたのは、50歳以上と15歳以下の者に身体の不自由な人。当時、50歳は高齢者とされていたから、社会的な弱者たちの救済措置という意味もあったといわれる。
枝豆はいくらで買われていた?
この鑑札を必要としない中に枝豆の行商人があった。夏の夜の商売で、生活に困った人が売ったという。
京都や大坂では「湯出さや、湯出さや」という売り声で、ゆでて豆を枝から外して鞘の状態で売っており、買ってすぐに食べることができた。このため鞘豆といい、豆が入った籠を肩に担いで売っていた。
一方、江戸では「枝豆や、枝豆」といい、枝に豆がついた状態で豆が入った籠を脇に抱えていた。売り手は男性も女性もいたが、江戸では女性が多かったという。
分量は不明であるが、1回分を30文(900円)で買ったという記録もあり、今から考えるとずいぶんと高い食べものであった。
https://toyokeizai.net/articles/-/459416
元禄年間(1688~1704)には上方から21万石の酒が入ってきていたという。当時の人口を70万人とすると1人あたり年間54リットルも飲んでいたことになる。一升瓶に直すと30本だか、70万人には子どもや下戸も含まれるから、それを省いたとすると江戸の人々はかなりの量を飲んでいたわけだ。
江戸時代、京都や上方に行くことを上るといい、江戸に行くことは下るといった。今と逆である。上方から江戸にやって来るものを下り物といい、江戸では下り物を高級品としてありがたがった。今日でもつまらないものや大したことがないものを「下らない」というが、その由来は下り物にあるといわれている。
さて、酒の値段は、幕臣で狂歌師・戯作者の大田南畝の記録によれば、天明4年(1784)以降、1升124文(3720円)から132文(3960円)が定価だったが、よくないものなら80文(2400円)や100文(3000円)。幕末の万延年間(1860~1861)には、上酒が1合40文(1200円)とかなり安くなった。
近年、インターネットで注文を受けて料理を届けたり、ネットスーパーと称してスーパーマーケットで販売しているものを配達するサービスが人気のようだ。
しかし、江戸の町はそれより便利だったかもしれない。いちいち注文しなくても商品を持った商人が家の前まで売りに来てくれるからだ。江戸では朝ごはんを炊いて、朝、昼、晩と食べる。だから朝食に間に合うように、アサリやシジミ、納豆など炊き立てのご飯に合うようなものを売りに来る。
そのほか、豆腐、油揚げ、鮮魚、野菜といった素材、味噌、醬油、塩などの調味料、飴細工など子ども向けの駄菓子、初ガツオやところてんなど季節の味覚も楽しめた。
万治2年(1659)4月に、こうした行商人たちに対して鑑札を必要なものと不要なものに分ける町触(まちぶれ)が出されたが、このうち食品関係はほとんど鑑札を必要なしとした。
具体的には、たばこ、魚、季節の果物など計12品。ちなみにこれらの商品を商ってよいとされたのは、50歳以上と15歳以下の者に身体の不自由な人。当時、50歳は高齢者とされていたから、社会的な弱者たちの救済措置という意味もあったといわれる。
枝豆はいくらで買われていた?
この鑑札を必要としない中に枝豆の行商人があった。夏の夜の商売で、生活に困った人が売ったという。
京都や大坂では「湯出さや、湯出さや」という売り声で、ゆでて豆を枝から外して鞘の状態で売っており、買ってすぐに食べることができた。このため鞘豆といい、豆が入った籠を肩に担いで売っていた。
一方、江戸では「枝豆や、枝豆」といい、枝に豆がついた状態で豆が入った籠を脇に抱えていた。売り手は男性も女性もいたが、江戸では女性が多かったという。
分量は不明であるが、1回分を30文(900円)で買ったという記録もあり、今から考えるとずいぶんと高い食べものであった。
https://toyokeizai.net/articles/-/459416
6: : 2021/10/07(木) 07:28:47.43
江戸時代の庶民の食事は一汁一菜が基本とされていました。
つまり、ご飯、味噌汁、お漬物です。
それだけかと驚きますが、その頃の日本人は米をものすごく食べていたと言います。
どれくらいなのかというと、なんと一人で日に5合も食べていたとのことです。
今は朝晩2回の食事で米を食べたとしても1合くらいですので、その消費量が半端ないのは一目瞭然です。
つまり、ご飯、味噌汁、お漬物です。
それだけかと驚きますが、その頃の日本人は米をものすごく食べていたと言います。
どれくらいなのかというと、なんと一人で日に5合も食べていたとのことです。
今は朝晩2回の食事で米を食べたとしても1合くらいですので、その消費量が半端ないのは一目瞭然です。
19: : 2021/10/07(木) 09:09:40.60
近くの商店街に角打ちできる酒屋が有るな
入ったことないけど
入ったことないけど
引用元https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1633557017/
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