nigaoe_toyotomi_hideyoshi
1: : 2021/02/09(火) 17:10:41.55
 (城郭・戦国史研究家:西股 総生)

■ 「中国大返し」の本当のキモ

 備中高松城の水攻めにあたっていた羽柴秀吉が、本能寺の変の第一報に接したのは天正10年(1582)6月3日の夜である。
明智光秀は2日の未明、本能寺に織田信長を襲い、直後に毛利方に密使を発していたが、これが秀吉軍に捕らえられたのである。

 ここからの秀吉の動きは速かった。備中高松城主の清水宗高を切腹させれば包囲を解いて城兵を助ける、
との条件を毛利方に持ちかけて停戦を成立させ、6日には備前まで撤退。世にいう中国大返しの始まりである。

 光秀が畿内制圧に動き出した8日、秀吉は居城の姫路城に着く。
3日後の11日、光秀が畿内諸将の支持を得られないことに焦りを募らせていた頃、
秀吉は大坂に入って摂津方面の織田方諸将を糾合にかかり、13日には山崎の合戦で光秀軍を破るのである。

 秀吉の中国大返しについては、これまでも、万単位の軍勢をなぜ、これほどすばやく移動させられたのか、
兵士たちの食料をどう確保したのか、という問題が取りざたされてきた。しかし、軍勢の移動については、筆者は特段不思議だとは思わない。

 なぜなら、秀吉軍は自軍の補給線を逆にたどっているだけだからだ。
まず、備前は秀吉に従っている宇喜多氏の領国で、備中戦線に対する秀吉軍の出撃拠点だ。
そうである以上、万一備中戦線が危機に陥った場合、備前まで退却することは最初から織り込み済みである。

 次に、もともと近江の長浜を居城としていた秀吉は、播磨を平定し、中国方面軍司令官に任じられたことによって、姫路を居城としていた。
つまり、この時点で姫路は、備中戦線に対する後方支援基地なのである。当然、兵糧などの物資も備蓄されている。

 であるならば、まず備前まで退却し、そこから腰兵糧(携行食糧)をもって姫路まで走れば腹を満たせる。
いったん兵を休ませ、姫路から腰兵糧をもって東に向かえば、2、3日で大坂に着く。
大坂は大都会だし懇意の商人などもいるから、兵糧の調達はどうにでもなる。こう考えるなら、軍勢の急速な移動そのものは不思議でも何でもない。

 中国大返しの本当のキモは、秀吉の判断の速さに求めるべきだろう。
変事の第一報に接するや、ただちに戦線をペンディングさせ、軍を反転させる決断をためらわずに下し、実行に移したところが、秀吉の勝因なのである。

 この秀吉の迅速な決断についても、不思議がる人が多い。6月3日夜の第一報の時点では、情報の真偽も信長の安否も確認できていないからだ。
毛利方への密書を謀略と疑うことなく撤退を決断できるものなのか? 
 いや、それをいうなら、このタイミングで光秀からの密使を捕まえた、という話そのものが出来すぎではないのか? 

 現状では、戦国史研究の第一人者のである先生方までもが、こうした点に疑問を呈し、
秀吉は光秀が謀叛することをあらかじめ知っていたのではないか、などと大まじめに論じている。
しかし、秀吉の迅速な判断と行動は、筆者にいわせれば不思議でも何でもない。
秀吉が置かれた「現場」の状況を「作戦」という観点から分析すれば、むしろ当然の判断とすらいえる。

 どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。


5: : 2021/02/09(火) 17:12:44.22
>>1
偉そうなこと言ってるけど誰だよこいつ

9: : 2021/02/09(火) 17:15:21.32
>>5
それにつきるw

25: : 2021/02/09(火) 17:24:22.10
>>1
>秀吉軍は自軍の補給線を逆にたどっているだけだからだ

それにしたって、数万を動かすのは大変だってばよ
信長死すの情報はそこそこ広がってるだろうし

それだけの人数が離脱もなく、山崎の地まで動いたってのは
すげーことだよ

32: : 2021/02/09(火) 17:25:42.63
>>25
実際関東攻略を担当してた滝川一益は軍が四分五裂しちゃったしな

141: : 2021/02/09(火) 18:17:20.47
>>1
秀吉「うきっ?予定通りだし」

162: : 2021/02/09(火) 18:29:36.83
>>1
話してはその通りだが、
当時は重い甲冑や武器を自分で持って抱えて背負って、
1日40キロ以上を徒歩で移動する事を
3日間続けて大阪、京都に帰ってくる、って、
馬に乗れない歩兵たちの根性が凄いんだよ

165: : 2021/02/09(火) 18:31:11.99
>>162
羽柴軍は甲冑とかは全部船で輸送してるぞ
兵士は基本形装備で走ってる
羽柴水軍ってあるからな

180: : 2021/02/09(火) 18:37:26.48
>>165
侵攻中は自分でスケジュール組めるからそんなことができただろうが、
中国おお返しの段階で大急ぎで京に帰るのに甲冑を着けずに道程を動けないだろ
集めた甲冑を船積みして大阪に運んで、
そこから歩兵たちに支給するとでも?
当時は歩兵たちの武装は基本的に自己負担だぞ
だから落武者狩りとか分捕りとか当たり前にあった

195: : 2021/02/09(火) 18:43:49.29
>>180
軽装備で羽柴軍が走ってたって資料が残ってるぞ
ちなみに同じ手をもっとうまく使ったのが賤ヶ岳の戦いで
大垣から大返し
羽柴軍が50kmを4時間で戻ってる
マラソンで42.195kmを2時間で走ってる現代人
舗装もしてない山道を50kmを4時間で甲冑付けてる思うか?
マラソン選手の倍の時間だと行っても一般人から見たら結構全力で走ってる
あれは中国大返しの経験からもっとうまく発展させてるのよ

4: : 2021/02/09(火) 17:12:26.80
ここで秀吉が帰ってこれなかったら歴史はどうなってたんだろうな

31: : 2021/02/09(火) 17:25:41.15
>>4
光秀が足利義昭を据えた
室町幕府が復活したんじゃないか?

36: : 2021/02/09(火) 17:27:53.59
>>4
体制整えた柴田勝家か徳川家康のどっちかが光秀討ってただろ

57: : 2021/02/09(火) 17:35:55.19
>>4
とりあえず柴田の勝ち
最終的には家康の勝ち

織田四天王はどれもパッとしねぇよ

7: : 2021/02/09(火) 17:13:26.52
そりゃ情報戦と外交戦略よ
先の先まで読んで動くのが将の基本や

16: : 2021/02/09(火) 17:20:42.76
影のボスは秀吉

20: : 2021/02/09(火) 17:21:50.97
細川藤孝からの密書は実在したのか?

65: : 2021/02/09(火) 17:38:18.82
今どき中国大返しは不思議だなんて言ってる人はいないだろ

80: : 2021/02/09(火) 17:45:13.93
配下「光秀が謀反をおこしました!」
秀吉「しってた」

86: : 2021/02/09(火) 17:46:56.87
むしろ秀吉が天下を取るにはこのタイミングしかなかったという
絶好のタイミング

引用元https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1612858241/