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毎日新聞2020年6月3日 11時10分(最終更新 6月3日 11時10分)


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見つかった芭蕉の自筆とみられる書簡=山形県酒田市の酒田あいおい工藤美術館で、長南里香撮影


 江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉(1644~94年)直筆とみられる書簡が山形県酒田市で見つかった。芭蕉が紀行文「おくのほそ道」の旅で、1689(元禄2)年に羽黒山(鶴岡市)に滞在した際に記した「天宥(てんゆう)追悼句」(県指定文化財)の修正を指示する内容。追悼句を所蔵する出羽三山歴史博物館は「長年謎に包まれていた追悼句の成り立ちが明らかになった」と注目する。【長南里香】

 見つかった書簡は掛け軸にされた1枚で、縦15センチ、横32センチ。宛名や署名、落款はないが、天宥追悼句について、「発句の無玉(なきたま)は其(その)玉に直してもいい」などと、計2カ所の修正を依頼している。

 同市の出羽三山歴史博物館によると、芭蕉は1689年7月(旧暦6月)に「おくのほそ道」の旅で羽黒山を訪れ、同山で俳句をたしなんでいた図司呂丸(ずしろまる)の取り次ぎで高僧らと面会し、歓待を受けた。その際に、三山の発展に尽くしつつも庄内藩との領地問題で敗訴し、流罪先の新島で亡くなった僧侶「天宥」の追悼句の執筆を頼まれ、功績をたたえる文とともに「其玉や 羽黒にかへす 法の月」の句を残している。追悼句には「無」の右側に小さく「其」とあり、芭蕉本人が修正して書き入れたとされた。


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「無」の右側の小さく「其」とある天宥追悼句=山形県鶴岡市の出羽三山歴史博物館で、長南里香撮影

 追悼句を所蔵する同館の渡部幸学芸員(62)は、「芭蕉が指示して誰かに直させた可能性も出てきた」と指摘する。その上で、見つかった書簡は呂丸への返信で、魂は無くならず再生し続けるとする出羽三山信仰において「無玉」という表記は意に沿わないなどの指摘を受け、返答したものではないかと推測。筆跡についても同館で所蔵する呂丸宛ての芭蕉の書簡と似ているとする。

 書簡は酒田市で個人美術館「酒田あいおい工藤美術館」を営む元美術教諭の工藤幸治さん(80)が2018年6月ごろ、知人から譲り受けた骨董(こっとう)品の中から発見。今年2月に人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に鑑定を依頼し、愛知東邦大の増田孝客員教授(日本書跡史学)から自筆と判定された。

 増田客員教授は毎日新聞の取材に対し、「筆の特徴と、芭蕉しか知り得ない内容などから、芭蕉の自筆で間違いない。追悼句の制作過程が分かる貴重な資料」と話している。

引用元https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/editorialplus/1591157350/